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ダ・ヴィンチ・コード(★★★☆)
The Da Vinci Code ★★★☆(3.5) 公式 Yahoo! Goo 映画生活 映画批評空間

 ルーヴル美術館のソニエール館長が何者かに殺される。しかもダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」の形になり、不可解なメッセージを残して。そこに名前が記されていたハーバード大学の教授ラングドン(トム・ハンクス)がファーシュ警部(ジャン・レノ)に美術館に呼び出される。ラングドンが容疑者であることを知ったソニエールの「孫」ソフィー(オドレイ・トトゥ)は一計を案じ、彼と逃亡を図る。
 二人は逃げながらもソニエールのダイイング・メッセージの謎解きに挑むのである。必死で後を追うフランス警察と謎の男シラス(ポール・ベタニー)。彼らは無事に逃げ延びることができるのか。そして最後に明かされる秘密とは何か。確かに、面白そうな映画である。
 原作も買ってあるが、積ん読のままだった。せめて読んでから見にいこうと思っていたのだが、早く見たいという欲望に負けてしまい、公開二日目にして見にいくことにした。2時間半という長編にもかかわらず決して退屈したり見てがっかりするような映画ではない。しかし、すごく面白い映画というわけでもなかった。原作の面白さを2時間半で表現することはきっと難しいのだろう。いろいろな話を無理矢理詰め込んだという印象がぬぐえなかった。
 キリスト教についてある程度の知識のある人なら、何が問題になっているのか、おおよその見当がつくと思うが、まったく知らないという人にはこの話が本当に理解できるのかなと感じた。予備知識なしに見ると、何が何だかさっぱりわからないということになるのかもしれない。謎がわかってもどうしてこれがこれほど大騒ぎするような問題なのか理解できないことだろう。
 この映画の中で一番光っていたのはシラスを演じたポール・ベタニーだ。彼の鬼気迫る演技はすごかった。シラスはカトリック教会の属人区オプス・デイの修道士であり、自らムチで体を痛めつけながら神に祈りを捧げる。その姿は異様だ。しかし、映画の中では彼の生き方や思想・信仰が掘り下げられることはなく、この点が少々残念だった。

 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵に描かれたイエスの左には女性らしき人物が描かれている。映画では、この人物こそ、マグダラのマリアであり、イエスの妻であるとされる。イエスが十字架に磔になったとき、マリアは身ごもっていたのだ。そして女の子を出産したのだという。つまり、イエスには子孫があり、2000年を経た現在も血が受け継がれているのである。そしてそれはイエスが人間であることを意味し、キリスト教の正統な教えに反するため、カトリック教会はイエスの血統を絶つためにこれまで何度もイエスの子孫や彼らを守ってきた守護者たちを虐殺してきたのだという。
 もちろん、正統派のクリスチャンから見ればあり得ない話である。もともとこの説は、裁判にもなったが、『レンヌ=ル=シャトーの謎』というトンデモ本に描かれたものであり、『ダ・ヴィンチ・コード』はそれをサスペンス仕立てにしたのだといえるのかもしれない。
 一般的な理解では、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に左に描かれている女性らしき人物とはヨハネである。「ヨハネによる福音書」21章20-24節には「イエスとその愛する弟子」という文章があり、「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である」と書かれている。ここには「イエスの愛する弟子」がだれなのか明示されてはいない。通説ではヨハネ自身だとされているが、「ダ・ヴィンチ・コード」ではおそらくこれをマグダラのマリアだと考えたのだろう。しかし、もちろんその説にも確たる根拠はない。
 初期キリスト教の時代には、いわゆる現在の聖書以外にもたくさんの聖典があり、後に異端とされたグノーシス派と呼ばれる宗派の福音書もあった。「マグ・ハマディ文書」が発見され、その中でも「トマスによる福音書」や「フィリポによる福音書」は大きな注目を浴びるようになった。断片しか残されていないが「ベルリン写本」にある「マグダラのマリアによる福音書」や最近再発見されて翻訳された「ユダによる福音書」もある。こうした外典と呼ばれる文書が各国語に翻訳され、一般に読まれるようになったことも『ダ・ヴィンチ・コード』が注目される背景にあるのだろう。
 カトリック教会から見れば、「ダ・ヴィンチ・コード」は座視できない映画だろう。あまりにも事実をゆがめすぎているからだ。シラスの所属していたオプス・デイは実在するが、そもそもこの組織には修道士は存在しない。クリスチャン・トゥデイによるとカトリック司教の一人は「「私は毎日著者ダン・ブラウン氏と映画制作チームの方々のために祈りを捧げています。なぜなら彼らは彼らが行っていることがどんなに人々を霊的に傷つけているか、そしてどんなに冒涜行為であるか気づいていないからです」と述べている。もっともなコメントだと思う。
 そのような批判があることを認めた上で、僕が映画でもっとも興味深いと感じたのは、カトリック教会が男中心の世界を作ったのに対して、マグダラのマリアは女性の象徴であり、男が女を支配しようとする力に対抗する力を意味しているとされている点だ。イエスが選んだ12人の使徒はすべて男だったが、聖書に描かれているマクダラのマリアは単なる信者以上の位置づけを与えられていることは確かである。「ヨハネの福音書」でも復活したイエスに最初に会うのは彼女なのだ。
 「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 (20章16-17節)マリアの思いが伝わってくるようだ。
 では外典の「フィリポによる福音書」ではどのように描かれているのだろうか。なかなか興味深いのだが、こうなるともはや映画の感想の域を超えてしまうので、ここでは簡単に触れるにとどめたい。確かに、これらの外典の記述はイエスとマグダラのマリアとの関係に新しい光をもたらしてくれるように感じさせてくれるのだ。(以下の孫引きの引用は最後にリンクを張った参考サイトからのものです。とてもよくまとめられており、おすすめです。)

「三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリヤと彼女の姉(妹)と彼の伴侶と呼ばれていたマグダレネーであった。なぜなら彼の姉(妹)と彼の母と彼の同伴者はそれぞれマリヤ(という名前)だからである。」(32節)
「不妊の女と呼ばれるソフィアは[天]使たちの母である。そして[キリスト]の同伴者はマ[グ]ダラの[マリ]ヤである。」「[主は]マ[リヤ]を[すべての]弟[子]たちよりも[愛して]いた。[そして彼(主)は]彼女の[口にしばしば]接吻した。他の[弟子たちは]彼が[マリ]ヤ[を愛しているのを見た。]彼らは彼に言った、「あなたはなぜ、私たちすべてよりも[彼女を愛]されるのですか」。救い主は答えた。彼は彼らに言った、《彼は彼らに言った》「なぜ、私は君たちを彼女のように愛さないのだろうか」(55節)

参考サイト マグダラのマリア(シフ 夜羽根)

補足 ~クリスチャンにとって「ダ・ヴィンチ・コード」が意味するもの

 カトリック教会にとって、この映画はうそやでたらめでカトリック教会を中傷していると感じるのは当然のことだと思う。しかし、プロテスタントを含めたすべてのクリスチャンにとってはどういう意味を持つのだろう。この映画のテーマを突き詰めていえば、イエスは神か人間かということにつきると思う。もし人間だということになれば、神と神の子イエス、そして聖霊の本質はひとつであるという三位一体説が壊れてしまう。キリスト教を知らない人には理解しにくいことだと思うが、それはプロテスタントにとっても大きな問題なのだ。
 キリスト教にはプロテスタントを含め、カトリック以外にもろいろな宗派があるが、三位一体説はどんな宗派にも共通しているキリスト教の根本原理だ(ちなみにイスラム教ではイエスは預言者の一人)。三位一体説を否定すると、イエスが十字架にかけられた信仰上の意味そのものが否定されかねない。クリスチャンにとって、イエスの死は、単なる一人の人間の死ではなく、神による人間の罪の贖いを意味するからである。
 イエスに子孫がいるという話はまったく現実味がないので、普通のクリスチャンは誰も信じないだろう。しかし、イエスがマグダラのマリアを誰よりも愛されていたという説は、外典を読む限りではありうることだと感じられる。もちろん、異端の書としてはじめから拒否することもできるし、そういうクリスチャンも多いだろう。しかし、数ある「聖典」から聖書を選んだのは神ではなく、人間自身である。
 たとえば、「マリアによる福音書」には、マリアだけがイエスから聞いたという教えが書かれており、それは一般的なキリスト教の教義とはかなり異なる印象を与える。ペテロでなくても困惑してしまうような話なのだ。その内容からこの福音書がグノーシス派によるものだと考える見方ももちろんあるだろう。
 しかし、もっと大事なことは、「マリアによる福音書」がマリア自身の女性的な感性や彼女に対するイエスの特別な愛情を反映しているのかもしれないということだ。そしてそれもまたキリスト教の真実の側面を示しているのかもしれない。これこそこの映画がクリスチャンに対して示唆している一番重要な問題である。そのことが果たして三位一体説を本当に否定することになるのだろうか。
 大切なのは、偏見を持つことなくありのままの言葉に耳を傾け、素直な心で受け入れる魂を持つことである。神の子イエスは、本当に一人の男性として一人の女性を愛し、そして愛されたのかもしれないのだ。そこから導き出される結論はただ一つ。神への愛、隣人愛、そして男と女の愛、三つの愛の本質は同じだということである。
by juneberry120 | 2006-05-22 03:04 | 映画 | Comments(9)
Commented by ユメリア at 2006-05-22 20:25 x
TBありがとうございます。
私は早い時期に原作を読んだので細部で忘れたところもありましたが、映画も面白く見ることができました。

ところで福音書について書かれていて参考になりました。
こちらからもTBさせていただきます。
また訪問させていただきますね。
Commented by yuu at 2006-05-23 01:41 x
TBありがとう ございます

ヨハネの事を書かれてますね

私はレオナルド・ダビンチを学生時代西洋美術史あたりで勉強して
薄い知識が 結構この映画を観るのに役にたちました(笑)

テーマが レオナルドですので それだけで面白かったのです
もう少し ゆっくり見せてくれ~が本音でした
二部作案 大賛成です
Commented by とんちゃん at 2006-05-23 07:48 x
TB有難うございました♪
ブログ名、素敵ですね (⌒-⌒)ニコニコ...
レビューも 知識に溢れていて参考になりますy(^ー^)yピース!
私は このキリスト教への知識が 全く浅いため、世界最大の謎といわれても ・・・( ̄  ̄;) うーんでした~(=^‥^A アセアセ・・・

これからも 宜しくお願いします♪
Commented by ゆかりん at 2006-05-23 11:45 x
TBありがとうございました。
とても興味深いレビューでとても勉強になりました。
Commented by ミチ at 2006-05-23 16:21 x
こんにちは♪
TBありがとうございました。
カトリック教会司教のコメントがなんだか興味深いですね。
やはりフィクションとして見る事は不可能なのですね~。
能天気な日本人にはどうしてそこまで反応するのか不思議に思うところがあります。
Commented by juneberry120 at 2006-05-23 21:34
ユメリアさん、yuuさん、とんちゃん、ゆかりんさん、ミチさん、コメントありがとうございました。
キリスト教にあまりなじみのない日本人にとっては、そんなに大騒ぎするような話には思えないかもしれませんね。この映画はある程度、事実らしきものに基づいているけど、結構その事実らしきものがキリスト教にとっては重大な問題だったりするんでしょうね。
「新世紀エヴィンゲリオン」が話題になったときは「死海文書」にずいぶんと注目を浴びたけど、あれはせいぜい日本国内の話だし、「ダ・ヴィンチ・コード」はあのときとは比較にならないぐらい世界的な話題になりました。
それだけに奥の深いテーマなんだろうと思います。
Commented by えい at 2006-05-25 19:42 x
こんばんは。

「トマスによる福音書」「フィリポによる福音書」
そして「マグダラのマリアによる福音書」「ユダによる福音書」。
とても興味あります。

TBありがとうございました。
Commented by juneberry120 at 2006-05-26 17:34
こちらこそコメントありがとうございます。
「ユダの福音書」はこれから出版されるところですね。
いろいろな話は伝わってきているけど、僕もぜひよんでみたいと思ってます。
Commented by hiroyuki at 2006-07-03 19:56 x
先日私も映画観てきました。
やはり私も本を読もうかと思ってます。
確かに面白かったんですが、細かいところが理解できない部分もあり・・・
宗教的な部分って難しいですよね。
この記事がすごく勉強になりました。
ありがとうございます。
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